働く場所は、もはや「与えられるもの」ではありません。「最近、採用面接で『この会社に入ったらどう成長できるか』と聞かれることが増えた」と感じている経営者・人事担当者は多いのではないでしょうか。
こうした質問を「受け身な学生が増えた」と捉えるか、「自分のキャリアと人生に真剣に向き合っている」と捉えるか。その解釈の違いが、これからの採用・定着戦略を大きく左右します。
転職が当たり前になり、終身雇用の前提が崩れた今、働く場所はもはや「与えられるもの」ではありません。求職者にとっても、在籍中の社員にとっても、会社は能動的に「選ぶもの」「選び直すもの」へと変わりつつあります。
この記事では、転職市場の変化を踏まえながら、社員が会社を「積極的に選んでいる状態」をどうつくるか、そのために人事に何ができるかを考えていきます。
1. 「なぜこの会社に?」と聞かれたら、あなたの社員は何と答えるか
突然ですが、あなたの会社の社員に「なぜ今の会社で働いているのですか?」と聞いたとき、どんな答えが返ってくるでしょうか。
「やりがいがある」「成長できる環境がある」「この会社のビジョンに共感している」——そう答えてくれる社員がいる一方で、「なんとなく」「他に行くところもないし」「給料はまあまあだから」という言葉が返ってくるケースも、決して珍しくないはずです。
前者は積極的選択、後者は消極的選択と呼ぶことができます。
どちらも「在籍している」という事実は同じです。しかし、その社員が発揮するエネルギー、会社への貢献意欲、そして定着率には大きな差が生まれます。消極的選択の社員は、何かのきっかけ——上司との衝突、同期の転職、ちょっとした不満の積み重ね——で、あっさりと会社を去ります。
問題は、こうした「消極的定着」の状態にある社員が、表面上は普通に仕事をしているため、経営者や人事からは見えにくいということです。
「うちの離職率は低いから大丈夫」と安心している会社ほど、実は消極的選択の社員が静かに増えているというケースは少なくありません。今こそ、社員が本当にこの会社を「積極的に選んでいるか」を問い直すタイミングです。
2. 転職が「普通」になった時代の現実
社員の定着を考えるうえで、まず外部環境の変化を正確に把握しておく必要があります。
2023年の正社員の転職率は7.5%。この数字は2016年と比較すると約2倍に達しており、転職がもはや「特別なこと」ではなく、キャリア形成の一手段として定着しつつあることを示しています。
特に注目すべきは、30代〜50代のミドル世代の転職が活発化していることです。2023年の転職者のうち約47.6%がこの世代に該当します。かつて「35歳の壁」と呼ばれ、この年齢を超えると転職が難しくなると言われていましたが、今やその壁は崩れつつあります。経験とスキルを持つミドル世代は即戦力として企業から強く求められており、転職市場での需要は依然として高い状態です。
一方、若い世代にも大きな意識変化が起きています。就職活動の段階から「セカンドキャリア」を視野に入れて動く学生が増えており、その背景には終身雇用の崩壊、経済の停滞による雇用の不安定化、そしてリスキリングやスキルアップへの意識の高まりがあります。
興味深いのは、こうした若者たちが必ずしも「転職したい」と思っているわけではないという点です。マイナビの調査によれば、新卒で入った会社に10年〜定年まで働き続けたいと考える学生は依然として4割程度存在しています。つまり、転職を視野に入れながらも、「条件が合えばこの会社に長くいたい」という気持ちも持ち合わせているのです。
この事実は、会社にとってチャンスです。若手社員が「転職しようかな」と思い始めたとき、その気持ちを引き止めるだけの魅力と環境を自社が提供できているかどうか——それが問われています。
また、ワークライフバランスへの意識の高まり、リモートワークや副業・フレキシブル勤務など柔軟な働き方の普及、インターネットによる求人情報へのアクセスのしやすさも、転職のハードルを下げる要因となっています。求職者が会社を選ぶ目は、かつてとは比べものにならないほど肥えているのです。
3. 積極的選択と消極的選択──社員はどちらで「今の会社」にいるか
「不満はあるけど、辞めるほどではない」
この言葉を、社員の定着として前向きに捉えてはいけません。これは消極的選択の典型的な状態です。
積極的選択とは、他の選択肢と比較したうえで「それでも今の会社がいい」と感じている状態です。給与が多少低くても、「ここで働く意味がある」「この仲間と仕事がしたい」「このビジョンに向かって進みたい」という内発的な動機が存在している状態といえます。
一方、消極的選択とは、「他に行くところがない」「転職活動が面倒だ」「今さら動くリスクが怖い」といった、いわばネガティブな理由によって現状に留まっている状態です。本人も意識していないことが多く、日々の業務をこなしながら、どこかで「このままでいいのか」という漠然とした不安を抱えています。
消極的選択の社員が多い職場には、共通した特徴があります。会議での発言が少ない、改善提案が出てこない、新しい取り組みへの反応が薄い——こうした「組織の停滞感」は、消極的選択が積み重なった結果として現れることが多いのです。
さらに怖いのは、消極的選択の社員が「辞めるほどではない」と思っているのは、あくまで現時点での話だということです。上司が変わった、給与改定で不満が生じた、同期が転職して活躍している話を聞いた——そうしたちょっとしたきっかけで、「辞める」という判断に傾くことがあります。
社員が今の会社を積極的に選んでいるかどうかを定期的に確認し、消極的定着の状態にある社員へのアプローチを怠らないこと。それが、人事の重要な役割のひとつです。
4. 100人いれば100通りの価値観。それでも人事が目指すべきこと
働く人々は一人ひとり異なった価値観を持っています。
給与を最優先にする人もいれば、やりがいや社会貢献度を重視する人もいます。労働時間の短さを譲れない条件とする人もいれば、職場の人間関係や職場の雰囲気を何より大切にする人もいます。これらの要素が複合的に絡み合い、「なぜ今この会社に勤めているのか」という理由が形成されています。
100人の社員がいれば、100通りの価値観があります。全員に等しく「この会社で働くことに納得してもらう」のは、現実問題として不可能に近いでしょう。
しかし、だからといって諦めてよいわけではありません。「全員への完全な納得」は難しくても、「一人でも多くの社員の納得度を高め続ける努力」を続けることが人事の本質です。
評価制度、賃金制度、教育制度、採用活動、福利厚生——これらは本来、社員の働きやすさ・働きがいを高めるための道具です。「制度を整えることが目的」になってしまうと形骸化が起きますが、「社員が積極的にこの会社を選び続けられるようにする」という目的を常に意識しながら運用することで、制度は初めて機能します。
また、価値観の多様性に対応するためには、画一的な施策だけでなく、個別の対話や関与が欠かせません。「制度があるから大丈夫」ではなく、「制度を土台にしながら、一人ひとりと向き合い続ける」姿勢が、積極的選択を生む職場づくりにつながります。
5. 人は感情の動物──納得度は常に揺れ動く
学歴、職務経歴、転職回数、現在の年収、職位、勤務地、転職市場の状況、社内での立ち位置、働きやすさ、働きがい——。
多くの人は、こうした条件を意識的・無意識的に認識しながら、「今この会社で働く」という選択をしています。そこに自分の価値観がミックスされ、納得度が形成されていきます。
しかし、この納得度は固定されたものではありません。同じ人でも、会社での日々の出来事や経験の積み重ねによって、気持ちや価値観は変動します。納得度は常に揺れ動くものなのです。
人は感情の動物と言われるように、転職・退職という大きな行動の裏には、必ず何かしらの「心の動き」があります。歯磨きをするような日常の延長として、転職を決める人はいません。何かがきっかけとなって感情が動き、行動につながるのです。
これはつまり、一度高まってしまった転職意欲や不満を、下げるチャンスも存在するということでもあります。
社員の声に常に耳を傾け、コミュニケーションを絶やさず、独善的にならずに謙虚に変化を続けること。そうした地道な関わりが、社員の気持ちをプラスの方向に変えることができるのです。
人事の仕事は、制度設計だけではありません。社員の感情の揺れ動きに気づき、適切なタイミングで関わり続けることも、非常に重要な役割です。一度離れてしまった心を取り戻すことは難しい。だからこそ、日常的な関わりの積み重ねが、定着の鍵を握っています。
6. 人事制度は「選ばれる理由」をつくるツールである
人事制度の目的は何でしょうか。「公平な評価をするため」「給与を決めるため」「スキルを高めるため」——どれも間違いではありませんが、より本質的な目的があります。
それは、社員が積極的にこの会社を選び続けられる環境をつくることです。
評価制度は、自分の頑張りが正当に認められるという実感を生みます。賃金制度は、自分の貢献に見合った処遇を受けているという納得感を生みます。教育制度は、この会社にいることで自分が成長できるという期待感を生みます。採用活動は、自社の価値観に共感してくれる人材と出会うための入口です。福利厚生は、日々の働きやすさを支える基盤です。
これらが連動して機能するとき、社員は「この会社で働くことに意味がある」と感じ、積極的選択の状態を保つことができます。
逆に言えば、人事制度が形骸化していたり、制度はあるけれど運用されていなかったり、評価結果が処遇に反映されていなかったりすると、制度が「不満の温床」になってしまうリスクがあります。「頑張っても評価されない」「給与が上がらない」「育ててもらえない」——こうした不満の積み重ねが、消極的選択どころか離職につながっていくのです。
人事制度を設計・運用するときは、常に「この制度は社員が積極的にこの会社を選ぶ理由になっているか?」という問いを持ち続けることが大切です。制度はあくまで手段であり、目的は社員の納得感と積極的選択の実現にあります。
7. 求職者にも社員にも選ばれるために、会社と人事が変わるべきこと
内定を辞退した学生や、退職した社員を責めても、現状は良くなりません。
「最近の若者はすぐ辞める」「うちの会社の良さが分かっていない」——こうした言葉で片付けてしまうことは、問題の本質から目を背けることにほかなりません。求職者や社員が「別の場所を選んだ」という事実の裏には、必ず理由があります。その理由に真摯に向き合うことが、改善の出発点です。
会社と人事が変わるべき方向性は、大きく3つあります。
① 社員の声を聴く仕組みをつくる 定期的な1on1、エンゲージメントサーベイ、退職者インタビューなど、社員の本音を拾い上げる仕組みを整えることが重要です。「何かあれば言ってくれ」という姿勢だけでは不十分で、能動的に声を集める仕組みが必要です。
② 自社の魅力を言語化・発信する 求職者に選ばれるためには、自社で働く意味や魅力を明確に言語化し、採用活動の中で発信する必要があります。「うちは給与が高い」という条件だけでなく、「この会社でしか得られない経験・成長・環境」を伝えることが、積極的選択を促します。
③ 変化を続ける組織であることを示す 社員が「この会社は変わろうとしている」と感じられるかどうかは、定着に大きく影響します。制度改定、働き方の見直し、上司のマネジメント改善——変化の努力が見えることで、社員は「ここにいれば良くなる」という期待を持ち続けられます。
求職者から選んでもらえるように、今いる社員から積極的選択として働き続けてもらうために。自社と関わるすべての人々に真摯に向き合い、会社と人事が変わり続けること——それが、転職時代における人事の本質的な役割です。
8. まとめ:「積極的に選ばれる会社」へ向けた第一歩
働く場所は、もはや「与えられるもの」ではありません。求職者にとっても、在籍中の社員にとっても、会社は能動的に選び、選び直すものになっています。
この記事で伝えたかった核心は、シンプルです。
社員が今の会社を「積極的に選んでいる状態」をつくることが、人事の最も根本的な仕事である。
転職率7.5%という現実、若者のセカンドキャリア志向、ミドル世代の転職活発化——これらは、会社にとっての脅威である一方、「積極的に選ばれる会社」になるためのチャンスでもあります。
社員の納得度は常に揺れ動きます。だからこそ、人事は制度を整えるだけでなく、社員の感情の動きに敏感であり続け、一人ひとりと向き合い続けることが求められます。
今日からできる第一歩は、「自社の社員は積極的にここを選んでいるか?」という問いを持つことかもしれません。その問いを持ち続け、答えを探し続けることが、求職者にも社員にも選ばれる会社への道です。
人事制度は、その旅の道具です。うまく使いこなすことで、社員の積極的選択を支え、会社の持続的な成長につなげていきましょう。